訴え書
日本国政府:
私は、李鳳琴と申します。我が父・李鵬閣は1941年に日本の中国侵略731部隊によって殺害されました。
私は、日本国政府に、過去の日本帝国主義政府が中国侵略戦争を発動し、我々の国に与えた重大な損害について、また、日本の軍隊が我々の国土において我が父を殺害し、我が祖母、母、兄弟たちから肉親を奪い、我々一家に、経験すべきではなかったはずの数え切れない苦痛と、永遠に消し去ることのできない心の傷を残したことを、強く訴えたいと思います。
我が父・李鵬閣は遼寧省蓋平県熊岳城蘇屯(現在の遼寧省営口市熊岳鎮黎明村)の出身で、1917年3月12日(旧暦2月19日)の生まれです。1936年2月24日に偽満州奉天鉄道学院電文科を卒業し(当時の卒業集合写真が残されています)、その後牡丹江駅で働いていました。父は1937年に遼寧省の故郷で我が母蘇桂蘭(李蘇氏)と結婚し、1938年旧暦11月12日にわたしの兄李智貴がそこで生まれました。後に母と祖母李孫氏、兄智貴が牡丹江で父との同居生活を始めました。当時一家は、牡丹江金鈴街の鉄道局職員宿舎に住んでいました。
祖母と母から聞いたところによりますと、1941年旧暦5、6月ごろのある日、父が仕事に出かけたまま、ずっと帰って来ませんでした。祖母と母は非常に心配し、祖母が父の勤めていた駅に訪ねていったところ、日本の憲兵隊に連行されていったが、どこへ連れて行かれたかはわからない、とのことでした。当時、母は私を身ごもっていましたが、あちこち捜して歩き、尋ねて回り、警察庁にも行ったそうですが、父の行方はわかりませんでした。この間、日本人と日本に協力する売国奴が我が家の捜索に訪れましたが、彼らが探している物は見つからず、母を殴りました。母は当時私を身ごもって数か月が経っていましたが、父が連行されたことで精神的に大きな打撃を被っていたさなかに、家の中を捜索され、殴られ、身体的にも非常に大きな損害を被りました。そのため、私は出生時から体が弱く、先天的な心臓病を患ってしまいました。家宅捜索を受けた際、祖母が2歳になる兄を抱きながら、父の写真をズボンの胴部分に隠していたおかげで、写真を今日まで手元に残すことができました。
当時、祖母と母は、父がすでに日本人に殺害されていたことを知らず、いつかひょっこり父が家へ帰ってくるのではないかと期待し、昼も夜も待ち続けていました。数ヵ月後、1941年11月8日に私は牡丹江で生まれました。父が日本の憲兵に連行されてから、我々一家の生活は苦境に立たされていました。牡丹江駅の周という職員が親切な人たちから少しばかりのお金を集めて、我々一家4人を遼寧の田舎に帰らせてくれ、そちらで苦しい日々を送ることになりました。このとき、祖母と母はすでに人づてに父が殺害されたという情報を得ており、一家は遼寧の田舎に帰るしかなかったのです。当時、我々一家には家もなく、土地もありませんでした。一家の大黒柱を失った孤児と寡婦にとって、生活は非常に苦しいものでした。一家4人の悲惨な体験、苦しい生活が、我々家族全員に、日本の侵略者への比べようもない憎しみを生み出しました。
私と兄は、小さい頃から、母と祖母より父のことを聞かされ、ずっと父の真相を追い求めてきました。侵華日軍731部隊罪証陳列館の勤務員が、記録の中から父の資料を探し出してくれました。書類「関憲高第764号」によって、我が父・李鵬閣が日本の侵略軍憲兵により連行されたこと、父が1941年に日本侵略軍731部隊によって残酷に殺害されたことが証明されました。日本の侵略軍が私の父を殺したのです。我が父は、殺害されたとき、たったの25歳でした。
私は、日本政府に厳しく訴えます。日本の侵略軍がわたしの父を残酷に殺害したことを訴えます。日本の侵略軍が我々一家にもたらした傷と損害について訴えます。誰が、晩年の祖母から息子を奪ったのでしょうか。誰が、たった二十数歳の母から夫を奪ったのでしょうか。誰が、たった2歳の兄から父を奪ったのでしょうか。誰が、私を生まれたときから父のない子にしてしまったのでしょうか。
私は、日本政府に我が父・李鵬閣の生命の尊厳について賠償するよう強く求めます。日本政府に李鵬閣の家族が受けた精神的傷と人生の損失を賠償するよう求めます。
我が父・李鵬閣は愛国の志士です。日本の侵略軍は中国において、父と同じような日本軍国主義の侵略に抵抗する多くの愛国志士を殺害し、多くの無辜の庶民を殺害し、甚だ大きな罪を犯しました。日本軍国主義が発動した戦争が、中国人民に重大な災難をもたらしました。私は、日本政府に日本の侵略軍の犯罪行為を訴え、今日の日本政府が歴史の真実を正視し、戦争に対する徹底的な反省を行うよう求めます。
訴え人
氏名:李鳳琴
現住所:吉林省長春市朝陽区自由胡同東北師範大学二教2棟1門101
署名:李鳳琴
2009年8月7日
写真と捺印