2026秋の研究集会の一般演題抄録

2026/10/06

研究集会・研究会

  2026秋の研究集会(第57回定例研究会、10月31日・京都大学東京オフィス、Zoom会議室併用)の一般演題の抄録は以下の通りです(発表順)。一般演題は午後1時から午後3時40分までの予定です。詳しい開催要領と参加申し込みはこちらのページをごらんください。


陸海軍の覚醒剤利用、本当に「危険性は知られていなかったのか」ー開戦前後の医学論文からひもとく思惑と沈黙

遠山 怜(ジャーナリスト・独立研究者)

 覚醒剤は日本の依存症臨床の基盤となった薬物であり、現在に至るまで濫用禍の中心を担ってきた。その端緒は戦時中にあり、急拡大の理由は「軍需品の大量放出が原因」と供給量の問題とされてきた。では、その危険性は本当に知られていなかったのか。本研究は、開戦前後の医学論文からこの点を検討した。
 覚醒剤取締法が制定された1951年までに、国内で発表された覚醒剤関連の論文・書籍のうち、国立国会図書館等で抄録・本文から内容が確認できた服用実験、海外文献のレビュー、症例報告を含む47件を抽出し、3期に区分した。散逸・非公開の資料は含まない。
 第一期の日中戦争期(1938〜40年、4件)は欧米文献のレビューが中心で、副作用や継続使用の危険性が言及され(大里俊吾 1938)、Benzedrinの濫用事例が報じられた(三浦岱榮 1940)。
 第二期の太平洋戦争期(1941〜45年、30件)には論文全体の約64%が集中し、軍陣医学・航空医学で「時局への適合」を目的に実用化研究が進められた(第七陸軍航空技術研究所 1943ほか)。ヒロポン発売時には、ドイツの習慣性報告を認めつつ、判断は実用での症例集積に委ねるとされた(三浦謹之助 1941)一方、個人差と副作用(有山登 1941)、連用による動脈硬化を理由に「操縦士には推奨できない」とする研究もあった(阿久津慎ら 1942)。
 第三期の戦後期(1946〜50年、13件)は、動物実験で疲労回復効果はないと結論づけられた(阿部勝馬ほか 1947)一方、「労働強化」を目的とした研究も(石原政子 1947)行われた。1947年にヒロポン常用者の急死が発覚した際には、「死因はヒロポンとは限らない」と緊急声明が出された(三浦謹之助 1947)。乱用禍の拡大に伴い、精神医学の主題は習慣性の問題に移行し(笠松章ら 1950)、原因は「精神的欠陥を持つ者」、すなわち使用者に帰属された(糸井賢美 1950)。
 以上より、医学文献上は、習慣性リスク(三浦謹之助 1941)や能力増進効果への疑義・副作用(有山登 1941ほか)が指摘されており、危険性が「知られていなかった」とは言えない。しかし、戦時には「時局への適合」、戦後には「労働強化」を背景に実用研究が続けられ、乱用が問題化すると原因は使用者個人に帰された。戦後の覚醒剤禍は、医学の関与という観点からも再検討を要する。


異種血輸血実験について

吉中丈志(京都民医連中央病院)

医療において輸血は不可欠の治療です。日本では日赤の献血事業で確保した保存血が利用されています。輸血が本格的に戦争で使われるようになったのは第一次世界大戦です。輸血の安全性確保に不可欠の血液型の判定や血液が固まるのを防ぐ抗凝固剤が使えるようになり、採取した血液を使う全血輸血が行われました。第一次世界大戦では広く輸血可能なO型血液を供給する体制が整えられました。
日本赤十字社を通じて日本に紹介された輸血は軍陣医学で重要なテーマになりました。満州事変から日中戦争にかけて、陸軍軍医学校、陸軍病院、大学などで輸血に関わる研究が盛んに行われました。具体的には、保存血、輸血清(全血から血球と凝固因子を除いたもの)、乾燥血輸血、ABO不適合輸血(以下 不適合輸血)、異種血輸血、屍体血輸血などです。
1939年に斎藤勤陸軍軍医大佐が行った大量の異種血輸血実験は陸軍防疫研究報告でも注目をされたものでした。
①異種血輸血実験:23人の被験者に正中静脈から200ml乃至1500mlの異種血(馬、緬羊、犬、家兎、鶏)を大型注射器で輸血しました。発熱、悪寒戦慄、血色素尿等の副作用は出たが一例の死亡もなかったと記しています。
②急性大量脱血者に対する異種血大量輸血実験:5人の被験者ら大量に脱血(1200、2500ml 日本医事新報報告では数十秒で脱血と記載)して出血性ショックに陥らせ、イリガートル(吊り下げ式容器)を使って大量の異種血(馬の血液)を輸血しました。救命的補血効果ありと報告しています。
③生体血管内の血球凝集反応実験:血球凝集反応が肺血管の閉塞を起こすと考えられていたため、実際に生体血管内で血球凝集反応が起きているかを確かめました。8人の被験者の総頚動脈をできるだけ長く分離する手術を施し、その上下端をクレムメ(鉗子)で挟んで血流を止め、各種動物の血清を動脈内に注入して10分間留置して観察しました。総頚動脈内では赤血球の凝集が起きず血管外に出すと10秒内外で凝集したと述べています。
④受血者に於ける異種血球の生存確認:鶏の赤血球は紡錘形で核を持つため輸血した後いつまで残存しているかの確認ができます。被験者1人に鶏の血液200ccを輸血したところ、鶏の赤血球は輸血後2日までは確認できたが3日目以降は観られなかったとしています。
こうした輸血実験が1937年以降どのように展開され、731部隊などの石井機関や陸軍病院がどのように関わったのかについて考察します。

国立公文書館より2025年度に公開された留守名簿(中支防疫給水部など)に記載の軍医などに対する博士の学位授与状況

西山勝夫(滋賀医科大学名誉教授、「戦争と医の倫理」の検証を進める会よびかけ人、軍学共同反対連絡会幹事 、大阪労災職業病対策連絡会顧問)

 「『留守名簿』から抽出された将校などの学位授与について」(第46回定例研究会, 2019年11月23日)では、当時までに入手できた留守名簿: 関東軍防疫給水部、南方軍防疫給水部、関東軍軍馬防疫廠、北支防疫給水部(戦後調整)、中支防疫給水部(戦後調整の複数の兵站病院から抽出)、南支防疫給水部(戦後調整の複数の兵站病院から抽出)から抽出できた軍医、獣医、将校、技師、嘱託、総計434名について、国立国会図書館で学位論文の表題、学位授与年月日、学位授与大学を調べた。国立国会図書館で所蔵を確認できなかった者で、先行研究で学位授与確認済の者を合計すると学位授与者数は183名、うち戦後104名であった。これらの者の学位授与記録の有無を国立公文書館で調べたところ、学位授与記録のあった者は114名であった。これら114名の学位授与者について、履歴、主論文の要旨、参考論文、審査員などについて調査した結果を報告した。

 2025年度になって国立公文書館より戦前に調整された北支、中支、南支の防疫給水部、南支軍馬防疫廠の留守名簿が公開された。その概要は「2025年度に公開された中支那・南支那・北支那の防疫給水部及び南支那軍馬防疫廠の留守名簿に基づく実態」(55回定例研究会, 2025年10月26日)において発表し、医関連性大と判定した隊員総数は449人であったことを明らかにした。
 その後、これら449名について、「『留守名簿』から抽出された将校 などの学位授与について」において報告した方法に準拠して調査したので、その結果を報告する。


イスラエルによるガザ侵攻が長期化する中で被害がどう変化し深化するか

猫塚義夫(北海道パレスチナ医療奉仕団・団長、札幌新川新道整形外科病院)

2026年10月7日パレスチナ・ガザ地区でハマスによる「越境攻撃」に対して、イスラエルの軍事侵攻が始まってからおよそ3年目を経過しょうとしています。この間、74,016名の犠牲者と173,643人の負傷者が発生させられています。
これらは、ジェノサイドと規定されていますが、現実のガザでは、この大量虐殺のみならず、①住宅の大量破壊(Domicide) ②医療システムの破壊(Medicocide) ③環境の破壊(Ecocide) ④教育の破壊(Scolasticide) ⑤ ジャーナリズムの破壊(Journalicide) ⑥文化の虐殺(Genocide of Culture)の多面的なジェノサイドが進行してきました。
医療の側面からすると、飢餓と餓死、四肢切断や脊髄損傷、感染症の蔓延、生活習慣病の放置、透析患者の未治療、がん医療の停止、低栄養児の累積、そして心理社会的な諸問題が顕在化しています。24か所中、22か所の医療施設が破壊され、医療関係者も1700名が命を落とし3,000名が負傷しています。これらに対して、現在稼働している医療施設は、国際赤十字委員会の仮設診療所とガザの医療関係者が必死につないでいる。
2025年10月10日の「停戦合意第一段階」後、90㎢の土地に200万人以上が閉じ込められているガザのにあっても、およそ1,000名のパレスチナ人が犠牲になってきました。
8月25日から9月26日の期間、私たちは「第18次パレスチナ医療・子ども支援活動」を行ってきました。その時のガザ住民とのオンライン交流では、友人から「具体的な支援は不可能なので、励ましをいただきたい」というメッセージが届けられ、戦乱を止めることのできない私たちの国際的な責任を痛感させられる思いでした。
一方、ガザから2,000人を上限に重傷者がヨルダンのアンマンに移送され加療を受けています。ここでは国連パレスチナ難民救済機構(UNRWA)をはじめ「国境なき医師団」とも連携して診療にあたっています。
さて、「10・7」以降、東エルサレムとヨルダン川西岸では、ネタニヤフ極右政権とイスラエル軍の庇護のもと「入植者」たちが、パレスチナ人と砂漠の遊牧民であるベドウイン族の家屋破壊や家畜の争奪を通して、入植地を拡げ西岸の「併合」を画策しているのが現状です。毎日西岸のどこかでパレスチナ人が殺され、昨年10月10日以降1,000名を超えています。現地では、「西岸は第2のガザ」とか「第2のナクバ=大災厄」と言われている状況なのです。
こうした、戦乱が3年以上も続く「ガザ地区」と同時にイスラエルからの「併合」を迫られているパレスチナにおいて、「戦争国家」イスラエルに対する国際世論の批判と国連を中心としたパレスチナ・イスラエル問題の解決のために微力を尽くすものです。

「調べられる身体」と生き続ける身体――ある原爆被爆者の医療経験から       

板谷めぐみ(京都大学大学院 人間・環境学研究科 修士課程)

本報告では、広島で被爆した一人の女性の身体経験と医療経験を手がかりに、原爆被爆者の身体が医学・科学の対象として「調べられる」ことと、本人がその身体を生き続けることとのあいだに生じるずれについて検討する。 
対象とするH氏は、1945年8月6日、14歳のときに爆心地から約1.6キロメートルの地点で被爆した。被爆後には大量出血や強い倦怠感、貧血、口唇・口腔粘膜の異常などを経験し、その後も長期にわたりさまざまな身体症状を抱えてきた。H氏はまた、10代から原爆傷害調査委員会(ABCC)の検査を受けた経験をもつ。男女が同じ空間で脱衣して検査を受けたことなどは、現在に至るまで「屈辱的な経験」として記憶されている。 
一方、H氏の身体は、ABCCによる検査や記録を通して、放射線影響を明らかにするための医学的・科学的データとして捉えられてきた。H氏はABCCに対する不信や屈辱的な記憶を語る一方、後年には自らABCCを訪れ、施設内部を見学し、母親の記録を求めたほか、自身のABCC時代の医療記録の開示も求めている。さらに、長年経験してきた口腔粘膜の異常について研究機関に問い合わせたが、そこで示された説明は、本人が被爆後の身体について抱いてきた理解と必ずしも一致するものではなかった。こうした経験からは、H氏と医学・科学との関係を、単純な信頼/不信、参加/拒否という二分法では捉えきれないことがうかがえる。 
本報告では、H氏への約5年間のライフヒストリー・インタビューと参与観察、本人が開示を受けた医療記録や関連資料をもとに、被爆後から現在までの身体経験をたどる。とりわけ、ABCCによる検査、医療記録の開示、研究機関への再訪や問い合わせ、その後の医療機関との関わりに着目し、本人の身体感覚や記憶が、医学的記録や説明とどのように重なり、またずれてきたのかを検討する。 
被爆者の身体は、放射線影響研究の対象として長期にわたり観察され、記録されてきた。しかし、その身体は研究対象である以前に、被爆後の80年以上を本人が生き続けてきた身体でもある。「調べられる身体」と「生き続ける身体」のあいだに生じるずれを、一人の被爆者の具体的な医療経験から捉えることで、戦争による身体被害が、その後の医学・科学や医療との長期的な関係のなかでどのように経験され、問い直され続けるのかを考察する。